十島雍蔵(社会福祉法人 吾子(あこ)の里 理事長)
Ako-kizuna@tuba.ocn.ne.jp
私が経営する知的障害者の福祉施設でちょっとした事件が起きました。
昼食時にある利用者がパニックを起こし、止めに入った三人の支援員が次々に噛まれて外傷を負ったのです。すぐに病院で治療してもらい、親を呼んで状況を説明しました。その日は母親の申し出で自宅謹慎ということになり、家へ連れて帰られました。
翌日、その利用者が登園して主任に付き添われ、施設長に「もう二度としません」と謝罪するセレモニーを行って一件落着と致しました。形式的にはこういう形で決着をつけたのですが、むろん利用者やご家族には何の落ち度もなく、本当に申し訳のないことをした、と思っています。
その日のケース・カンファレンスで、パニックが起きた直前に何があったのか、事の顛末を詳しく尋ねました。利用者が食事中にご飯を犬食いしているのを、若い女子支援員が見咎め、「ご飯を手で持って食べなさい」と注意したところ、「ご飯は手で持って食べられないよ」と応じたらしいのです。これを反抗と受取った支援員が、かなり厳しい口調で、「口答えしないで、ちゃんとご飯を持って食べなさい」と再度指示した途端、利用者はキレて、お膳をひっくり返し、大暴れしだしたということでした。
この場合、問題行動は支援員が作ったと言えるでしょう。当の支援員は今年大学を卒業したばかりで、まだ利用者に接するのに自信がなく、ナメラレタと感じたのもやむを得なかったかもしれません。でも、それを冗談として「あら、そうよね。ご飯は手で持てないよね。ごめん、言い間違えちゃった。お茶碗を手で持って食べてね」と軽く受け流していたとしたら、どうだったでしょう。直前の出来事がちょっと違えば次に起こることも少し違うはずです。先程の利用者の反応がたとえ実際に反抗だったとしても、それが冗談と受け止められれば、ひょっとしたら笑いで済んだかもしれません。
もし、利用者が素直にリテラル(字義どおり)に反応して、ご飯を手で鷲づかみして食べたとしたら、支援員はびっくり仰天して、「ご飯を手で食べるんじゃないの!」と逆の叱り方をしなければならないハメに追い込まれていたでしょう。利用者やご家族には大変ご迷惑を掛けてしまいましたが、若い支援員にはよい経験になったことでしょう。
すべての事柄は、「現にある、と同時に別様にもありうる」ものです。あらゆる可能性のなかで、現に今ひとつの事柄が起こっているに過ぎません。支援員には、さまざまな対応の可能性を身につけて、その瞬間、その場の状況にもっとも適切な行動をとっさにとることができる生活の知恵が求められます。それが専門性ということです。そのような専門性を習得するためには、ミクロなケース・スタディの積み重ねが必要です。
私どもの福祉施設では、原則として毎月1回、ある特定の具体的な支援場面をほぼ10分間程度区切り取って、そこで起こった利用者と支援員との間の事細かなやりとり(内面の推測や内省も併せて)を時系列的に記録して、支援員みんなで事例の検討を行っています。
たとえば、緊張すると手が震えて“こぼす”ある利用者(Aさん)の食事介助の事例では、“こぼさないように食べさせる”ための声かけ・支援をどうするか、を検討課題にしました。担当支援員はいつも「Aさん、またこぼしましたね。こぼさないようにたべましょう」と声かけしていました。これは優しいけれども、指示的な声かけで、Aさんをますます緊張させてしまいます。また「こぼし.たね。こぼさ.ないように食べよう」という言い方は、行為の主体者であるAさん自身を非難しているように聞こえます。言い方を少し変えて、「こぼれ.たね。こぼれ.ないように食べよう」と声かけしたとしたら、“こぼす”という行為をAさんから切り離して〈外在化〉することになって、少し緊張をやわらげる効果があるかもしれません。臨床語用論的対応です。
「そんな細かいことを」と思われるかもしれません。が、神は細部に宿り給うのです。利用者の実存的欲求を満足させる心理的支援を実存的支援と呼ぶならば、それはとてもミクロなものなのです。それをていねいに注意深く拾い上げる分子レベルの分析が、現場の心理的支援に役立つケース・スタディになるのです。
私どもの施設では、このような事例検討の結果を支援員みんなで共有し合うことによって、施設内における支援のあり方の貯蓄を豊かにしているのです。これを「サポート・バンク」と名付けています。その貯蓄高が増えるほど、支援員の見立てと手だてが豊富になり、ひいては施設全体の支援の質が高まると考えているからです。
福祉心理士として、『青い鳥』を読む
福祉は幸福のことだと聞きます。そして、幸福といえば、メーテルリンクの『青い鳥』がすぐ頭に浮かびます。青い鳥は幸福の象徴だとされているからです。この話は、「見えないものが見えるようになる」チルチルの修行物語です。でも、深読みすれば、福祉心理士のための諭しとして読むこともできます。いくつかの論点を挙げてみます。
①チルチル・ミチルの青い鳥を求める旅立ちの動機は?魔法使いのおばあさんからの依頼です。魔法使いの娘が重い病気を患っていて、それを治すために青い鳥がどうしても必要だったのです。彼女の病気は医者から「神経」と診断されていますので、なんらかの心の病だったのでしょう。心理的支援へのニーズです。
②青い鳥は、幸福そのものの象徴というよりは、幸福になるための道具、あるいは、心理的支援の理論と技法とみなした方がいいでしょう。青い鳥は、すぐ色が変ったり、死んだり、捕らえそこなったりします。心理的支援はなかなか一筋縄ではいきません。また、青い鳥は「どこにもあって、どこにもないもの」というパラドックス的存在です。つまり、心理的支援に役立つ要素は、日常生活の中にどこにでもごろごろ転がっているのに、私たちはそれに気づいていないのです。
③トルストイは「幸せの形はひとつだが不幸は様々だ」と言っているそうですが、メーテルリンクは「幸福の楽園」で幸せでない幸福も含めてたくさんの幸福たちを登場させています。「不幸と同じく、幸福も人それぞれに千差万別だ」といっているのです。このことは、福祉心理士してもよくわきまえておかなければならないことです。
④最後の「目ざめ」の場はみなさんよくご存じの場面です。帰ってみると、旅立つ前とまったく同じはずの自分の家が、以前とは比べものにならないくらい、ふしぎに新鮮で、楽しげで、幸せそうに見えます。しかも飼っていたキジバトまでが青い鳥になっているのです。意図せずに、チルチルの見方がコペルニクス的に転換されています。
⑤この青い鳥のお陰で、娘の病気はすっかり治癒するのですが、その瞬間、青い鳥は飛び去ってしまいます。そして、チルチルの青い鳥探しの旅がまたはじまるのです。
このことを、福祉心理学的に、どう解釈したらよいのでしょうか。『青い鳥』を子ども向けのたわいのない夢物語と読むか、そこに深い哲学的宗教的隠喩を読み取ることができるかで福祉心理士の力量がわかろうというものです。試しに、一度読んでみられませんか。
十島雍蔵先生のプロフィール
今年49歳になる長男が重度の知的障害者で、かれこれ半世紀にわたって障害者の父親と大学の教員の二足の草鞋を履いて生きてきました。大学では、臨床心理学、特に家族システム療法を専門にしていましたが、十数年前から福祉現場の実践に臨床心理学を生かすことに関心を持つようになりました。